萩城、別名指月城(しづきじょう)は萩の名所旧跡のポイントです。ここをちゃんと見ておかないと萩に行ってきましたとドヤ顔して言ってはいけません。たぶん。
ということで天守閣は残っていませんが、萩城跡はどういうところなのでしょうか。ひとまわりしてみましょう。
萩城跡
場所と駐車場
場所はこの地図中央マーク近くのくねくね道を北上しますと内堀と城跡があります。中央のマークはおすすめの駐車場です。
萩城を見学するにはすぐ前の土産やの駐車場が適当でしょう。無料と書かれていますから気兼ねなく停められます。
猫スポットでもあった
▼駐車場から萩城に向かおうとすると向こうから何やら近づいてくる物体が3つ。
▼なんと猫です。猫好きの自分にとっては思わぬ楽しみです。前日に雲林寺という猫寺に行ったのに生きてる猫には会えなかった無念をここで晴らした気分です。
旅先でいつでも猫にあったときに土産をあげられるようにいつでも小袋入りのおやつを携帯しているので早速召し上がってもらいました。これさえ持っていれば猫ちゃんは警戒せず寄ってきてくれますからww
▼駐車場だけかと思ったら石垣の間の虎口(カクカクした通路)にもいました。さがせばもっといるかも。
典型的な虎口で楽しい
▼これは本丸の内堀に到達する前の二の丸の虎口です。たぶん。駐車場からすぐ見えるところです。
▼進んでいくとくねくねと曲がってます。
本丸
▼本丸へ通じる橋と内堀です。正面に料金徴収所があります。早い時間でしたがやってます。
料金は大人210円で旧厚狭毛利家萩屋敷長屋と共通券として使えます。つまりここで払っておけば駐車場沿いの道路を挟んで向かいにある旧厚狭毛利家萩屋敷長屋の入場料も込みということです。
▼入り口から左へ歩くとまた虎口です。
▼石垣よく積んだなあと感心するばかり。
石垣の内側
天守閣はないのでほぼ内側は公園ぽいんです。香川県の栗林(りつりん)公園に行ったときを思い出すきれいさです。本丸内には神社もありますが建立されたのは明治時代になってから。
天気が良ければもっとすばらしいでしょう。
ただ朝早めだったのでほとんど人はおらず独占状態に近いです。
天守閣跡
さてさらに奥へ分け入ってみると何やら小高くなったところに階段が見えてきました。
▼天守閣跡です。ここから階段を上がると見渡せるようです。
▼登って見渡してみました。
▼こちらのサイトからリンクをたどれば萩城跡のバーチャルな天守閣が見られます。行く前によく見ておくんだった。 萩市観光協会「ぶらり萩あるき」
まとめ
写真はもっとこれの数倍は撮りましたが、すべて載せるのも無粋ですから興味のある方は自分の目で直接見るのが一番でしょう。
この萩城は明治7年の廃城令までは現存していてそのときに破却されたようですが、もしその廃城令がなければもしかしたら戦争でもやられず城下町と同様に残ったかもしれません。
萩城 – Wikipediaでは現存していたころの貴重な姿が見られます。
スケジュールの都合でかなり急ぎ足でまわりましたが、もっと奥の指月山の頂上まで登ればさらにいくつか見られたでしょう。
でもGoogleストリートビューでも見られますからそれはパソコンで見るだけで良しとしましょう。
旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
萩城入り口の駐車場の向かいにあるのが旧厚狭毛利家萩屋敷長屋です。同じ入場券で入れます。
▼そんなに見どころがあるわけではありませんが入場料を支払い済みとなると入って見ておかないと損という庶民感覚が働いて中に入ってみることに。
で、実際どうだったかというと写真の公開は遠慮します。撮影は自由ですし見どころはそれなりにありましたが、なんでもかんでもネットに公開してしまうのも無粋というものです。
萩城の入園料を払った方はぜひこちらの旧厚狭毛利家萩屋敷長屋も見学してみてください。
ちなみに厚狭毛利家というのはWikipediaから引用してしまいますが、
毛利元就の五男毛利元秋・八男末次元康を祖とし、関ヶ原の戦いの後長門厚狭(現在の山口県山陽小野田市)に10,500石を与えられたのが始まりである。
萩城付近に現存する旧厚狭毛利家萩屋敷長屋元康の跡を子・元宣が継ぎ、厚狭郡末益村(現・山陽小野田市)・厚東郡船木村(現・宇部市)を与えられ、末益村の郡(こうり)に居館を構えたことにより厚狭毛利氏というようになった。
引用:厚狭毛利家 – Wikipedia
という感じで毛利元就にはいっぱい子供がいてそれぞれ近隣へ移住してはそこで家を興したのでどこどこ毛利家というのは山口県にいくつかあります。
長府毛利家もそのひとつです。
その厚狭毛利家の萩屋敷はたいそう当時は広かったようなのですが、現存しているのは長屋といいますから家来の武士たちが寝泊まりしていた集合住宅みたいなものかなと思ったらそういうわけでもなかったようです。
5つに区画された内部には土間がなく、特に東の座敷は狭いながらも畳廊下を配した格調高い造りであることから、身分の高い者に対して用意された詰所であったと思われます。
引用: 萩市観光協会「ぶらり萩あるき」
てっきり長屋というからには下級武士の団地かなと思い込んでいましたが、ちゃんと下調べして行ったほうがいいでしょう。