吉田松陰誕生地やら松下村塾の近くに伊藤博文の旧宅があります。
もともと吉田松陰と伊藤博文は長州藩の下級武士同士近くに住んでいたんです。
それでも伊藤博文のほうが格段に身分が低かったため松下村塾でも敷居をまたいで入ることを許されず戸外で立って聴講していたとのことです。伊藤博文 – Wikipediaより
出自は百姓であったにもかかわらず内閣総理大臣やその他政府要職を歴任するなど活躍した伊藤博文の別邸をせっかくなので見てみましょう。
庶民であるわれわれも彼から学べるものがきっとあるはず。
伊藤博文別邸
地図の中央部マーキングには伊藤博文旧宅と書かれていますが、そのすぐ下には別邸もあります。
現地では別邸のほうが断然目立つのでまずは別邸をよく見ておきましょう。
スポットでの入館料は100円の寄付ですが萩文化施設1日券(310円)を買っておけばフリーパスです。
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外観
きれいに整備された砂利とアプローチで玄関も立派。このときは維新150周年記念の幟がはためいていました。
実に立派な構えの屋敷です。
伊藤博文の別邸は横浜市金沢区にもあります。そちらがオリジナルの別邸のようです。
もともとは東京都大田区荏原に建てたものの一部をこちら萩に移築したものだそうです。
一部ですからね。よく覚えておいてくださいよ。
邸内
これでもかというくらい部屋数があります。伊藤博文って百姓出身でその後武士になったといってももっとも身分の低い足軽階級でした。
それがこれです。以下写真を何枚か掲載していますので刮目(かつもく)してください。
部屋数がとにかく多くてとても数えられません。
ここから先は地下になります。地下と言っても伊藤博文別邸は坂の中腹に建てられているので土中の地下ではなく坂を下ったほうにある部屋です。
庭
庭もちゃんときれいにしてあります。灯籠なんてのもあったりして。これはいかにも当時のセレブの住む家という感じです。百姓または最下級武士の住む家ではありません。
長州藩の旧厚狭毛利家萩屋敷長屋見たときだってもっと貧しい感じでしたよ。
これら写真で見るとこの屋敷はかなり出世してからドヤ顔して建てたものと容易に推測できます。
出世するとこんな家を建てられるのかと感心してしまします。そりゃそうかな。初代内閣総理大臣は周知のこととしてそれ以外には▼こんないろいろなものを残してます。
維新後は薩長の藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使、参議兼工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監、元老を歴任した。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争の勝利に伴う日清講和条約の起草・調印により清国から朝鮮を独立させた
引用:伊藤博文 – Wikipedia
成り上がりといっては失礼ですが出自の割にはかなり出世した見本みたいな人です。あやかりたい!
伊藤博文旧宅
では別邸の庭から見える旧宅を見てみましょう。
萩の別邸と隣合わせで旧宅も残っています。徹底の庭から屋根だけ見えます。茅葺き屋根が劣化してきていて、このときは修復状態の途中でした。
門
最下級武士といってもちゃんと門があるのがすごいっすね。うちは門ありません。いきなり玄関ドアです。しかもアプローチもうちにはありませんがな。
旧宅
▼いかにも「あばらや」という感じの家です。もともとこういう家に住んでいたんです。
質素としか言いようがない。
まとめ
このような伊藤博文の別邸と旧宅でしたがいかにも出世する前とした後というのがわかりやすいです。
伊藤博文といえば「伊藤博文」の観光情報 – じゃらんnetも見ておくと役立つかもしれません。